東野圭吾作品の世界

東野圭吾著作の書籍からその世界観を独断と偏見で解釈します!

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映画「真夏の方程式」では、どんなガリレオがみれるのか?

小説版【真夏の方程式】では、“今までにない湯川”がみれるのが見どころにもなっています。さてさて、映画ではこの辺がどのように描かれているのかが楽しみですね!

 

それでは、小説版【真夏の方程式】での見どころですが、

事件解明にあまり積極的には介入しないはずの湯川が、今回はむしろ積極的に介入して事件を解明しようとしているところです。

 

事件発生当初は、湯川も傍観者に徹するつもりだったようです。

ですが、たまたま被害者が同じ宿に泊まっていたという偶然から、望まなくても事件の情報が入ってきます。

そのうちに湯川は、この事件にとんでもない人物が関わっているかもしれないことを知り、警察側の事件処理の仕方によっては、その人物の人生が大きくねじ曲がるかもしれないという懸念を抱きます。そこで、湯川は警察よりも先に事件の真相を知る必要性を感じ、事件解明に今までになく積極的になるのです。

 

湯川が事件解明の協力をするのは、通常は、物事を論理的に解明するという科学的見地からです。だからいつも事件そのものや事件に関係する人々のことなどには一切興味を示すことがありません。

それは、湯川という人間が冷たい人間だからなのではなく、事件に潜む人間的な感情などは、論理的な解明を図るプロセスにおいては何のプラスにもならないと考えているからだと思います。

 

しかし、今回は違います。ある人物の将来を心配して事件解明に積極的に乗り出すのです。それはいったいなぜだったんでしょうか?

その理由には、もうひとつの“今までにない湯川”にも関係しているように思われます。

 

少しネタばれになるのですが、湯川が将来を心配した人物とは“柄崎恭平”という少年のことです。ガリレオファンならご存知のように、湯川は子供が大嫌いです。しかしながら、真夏の方程式では、この恭平少年と交流を深めることになります。一緒に食事をしたり、少年のために実験をしてあげたり…。

 

湯川の子供嫌いは、子供の行動や言動が論理的ではないという理由からです。しかし、恭平少年自身が、子供の非論理的な行動に疑問を持っていることが描かれており、湯川が嫌いな子供のタイプには当てはまらないことが小説の冒頭部分で書かれています。

 

つまり、年齢は違えども、恭平少年は湯川と同じようなタイプの人間だという設定なわけです。湯川は、恭平少年のことを“偏屈少年”だと断じています。しかし、この“偏屈”という言葉は、いつも湯川が周りの人から言われていることなんですよね(笑)。

 湯川は、この恭平少年が自分と同じように、感情より優先して論理的な解釈が出来る自分と同じようなタイプの人間だと無意識に感じ取ったから、いつものような苦手意識がなかったのではないでしょうか?

 

しかし、心ならずもこの恭平少年は自分でも知らないうちに事件に大きく関わってしまいます。

恭平少年がこの事件を真相をどのように受け止めるかで、せっかくの恭平少年の優秀な思考回路の芽が摘まれてしまうことになるかもしれないことを危惧したのではないか、と僕には思えるのです。だから、積極的に事件の真相を解明し、この事件を恭平少年にどのように伝えるべきかを考えたのではないでしょうか?

 

あまり、自分の心情をあまり表に出さない湯川の人間的感情が垣間見れるこれらの部分を、映画ではどのように表現されているのでしょうかね?

真夏の方程式 (文春文庫)

真夏の方程式 (文春文庫)